Home > kyage. Blog > 大文字

大文字

  • Posted by: kyage.
  • 2011年8月18日 21:04

今年も京都では大文字の送り火があったけれども、今年はその薪をめぐって大騒ぎがあったんだそうで。(ほとんどの方はご存知だとは思うけれども、知らないひとのためにたとえば→http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110812/lcl11081215500004-n1.htm)正直、事の細かい経緯はまったく知らないのだけれども、結果論としては、被災松を通じて、松に限らず陸前高田の商品はもうまともな取引ができない、ということを日本全国の人間に周知してしまったことはたしかである。おそらく、あんな欠陥商品を売りつけて陸前高田のイメージを台無しにした林業の人間に、ほかの陸前高田のひとびとは相当怒っているのではないかと想像してしまうが、さて・・・・。

よくわからないのは、結果として、セシウム汚染された松、というまったく品質チェックが行われていない商品が陸前高田から納入されたという事実があるわけだが、どうしてそういうことがそもそも可能だったのか、ということ。あちらの業者さんが例の松のチェックができる状態にないのであれば、ふつう、「品質チェックができておりませんので、大丈夫だとは思いますが、しかし念のために商品の発送は見送らせていただきます」というような感じのコメントを出すのがふつうではないだろうか。そういう風に考えると、現実はそうならなかったのが、不思議だ。

そうした商品の理屈以上の力学が働いたということなのだろうか? 「被災松を使わないとはどういうことだ!」「東北の風評被害を京都人は大きくするのか!」、という「善意」の世論というものが猛威をふるった、ということなのだろうか? そのあたりはぼくはまったく知らないのだけれども、仮にそういうことがあったのだとすると、こうした「善意」というものはいかに陸前高田を無責任に傷つけたことか・・・・ 実はそういうことになる。

話の視点を若干変えてみる。そもそも、被災松が汚染されていなかったとして、その被災松が京都の大文字の送り火に使われたとして、それが本当にいいお話だったのだろうか? たしかに今年の3月11日に多くの人間が亡くなった。しかし、それは京都のことではない。東北地方でのことだ。京都人が、送り火を見ながら、東北の死者を想え、ということか? しかし、それはおこがましくないか? そうした権利を本来もっているのは、実際に家族なり友人を失いした東北の人たちではないのか? 東北の人間を出し抜いて、京都人が東北の死者を想う、ということがそんなにいい話とはぼくには思われないのだが。

まずもって、今回の震災の死者を送り出すような行事は東北の方々の手でさせてあげるべきなのではなかろうか。そして、今の被災地を思うに、とても被災地ではそんなことができるような現状ではない。

結局のところ、今回の騒動を動かした「善意」には、被災を経験してない人間たちの考える「善意」しかなかったのだ。

Comments:0

Comment Form

Home > kyage. Blog > 大文字

OpenID accepted here

Accepted OpenID

Search
Feeds
CC Licence

Creative Commons License

このブログはクリエイティブ・コモンズでライセンスされています。

Return to page top